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JAZZの話題から日常的な話題まで・・・基本的にはジャズなのですが♪
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私の母の実家はもとはラーメン屋だった。
物心ついたときからラーメンはいつも食べていたように思う。

祖父は、器用な人でラジオを組み立てたりアコーディオンを演奏したり、大工をしたりとマルチな才能の持ち主だった。そんな祖父がラーメン屋を祖母とはじめたのは何年前だったのか。

こだわりがとても強い人で、儲けに関係なく、麺の粉は一番いい物を使っていたらしい。

「美味しいと言って食べてくれる人がいることが嬉しいんだよ・・」

これが祖父の口癖。私も就職してから、よく同僚と食べに行ったが、お金なんて絶対にとらない。ただ「ご馳走様!美味しかったです!」この言葉が何よりの誇りだったようだ。

今から20年くらい前にラーメン一杯350円。他の店は500円ぐらいはしていたと思う。

「値上げしたら?」とさんざん母が言っていたが、がんとしてきかなかったらしい。祖父らしい。生き様をとても感じることが出来る祖父の姿は今でも脳裏に焼き付いている。
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お盆も終わり帰省ラッシュも落ち着きを見せ始めている。
8月は終戦という日本人には忘れてはならない月だということは言うまでもない。

先日面白い記事を見つけた。

江戸時代の日本の人口は2600万人だったそうである。
これは歴史を学んでいれば・・または歴史書を見れば分かること。
そこで、実際に私の家族について調べてみた。

私が生まれたのは1967年。今は結婚して娘が一人いる。
私に両親がいるように、妻にも両親がいる。合わせて4人。

では、私たち夫婦にはおじいさんやおばあさんはどれくらいの数がいるのか。
計算してみると面白い結果になった。
27歳で結婚したと仮定しての話である。

5世代遡ると、その数は32人になる。
我が家の場合は、だいたい1859年頃らしい。桜田門外の変があったあたりということだ。

そこからさらに遡り10世代前まで遡ると、その数は、1024人になる。
西暦で言うと、だいたい1724年あたりになるだろうか。徳川吉宗が享保の改革を行っている最中?

タイトルにある「4.92人」とは何なのか?
現在の日本の人口を1億2800万人とすると、「4.92人」の血が繋がっていることになるのだ。
だいたい5人に一人の計算になる。

血が繋がっている同士で喧嘩をしているのはどんなものかとあらためて思い知らされる。
こんな事を数字という無機質なものではあるが考えてみるのもいいのかもしれない。
なぜなら、それは時間の流れの中で確実に存在したものであり、その時代に頑張って生きていた先祖がいたから今があるのだから。

彼らのDNAは現在まで受け継がれているのだろうなと感じるときがある。
よく言われる言葉に「血は争えない」というのがある。
子どもが父母から気質・性向を受け継いでいることは否定しようがない。血筋は争えないという意味。

しかし、少しずつ進化し発展していっているだろうと感じる。
人間はある時点で止まっているものではないはずだから。


小学校に入学したのは何年前でしょうか。
私が通っていた学校は、祖父も父も入った学校。
もちろん当時の姿そのままというわけではないが、火事があったりしながらも、その存在感は大きいものだった。

1年生の時。
隣の席に座ったのは、郡山から引っ越してきたという女の子。何故か彼女とは気があった。
馬鹿な話ばかりしたような記憶がある。

2年生の時。
私の今に繋がる恩師と出会う。

3年生から6年生。
ほとんど記憶なしww。

高校入学の時には、隣に座った女の子の受験番号を聞いてびっくり。
私は89番で彼女は49番。・・・「四苦八苦」・・。

今振り返ると、いろんな事が思い出されるが、よく考えてみると面白いのだ。

世の中は「偶然」という時空列の中に存在していると思えてならない。
私が小学生の時に隣に座った女の子は私が今住んでいるところで生まれなければ出逢っていなかったはずなのだ。
同じように彼女もこの地域で生まれていなければ私と出会っていない。
もっと言えば、私や彼女の両親が結婚して、この地に住んでいなければ・・・ということになる。
そう考えると、私の周りにいるすべての人間の存在は「偶然」ということになるのではないか。

人間というのはだから面白い。
この「偶然」という事象が毎日、無意識に自分の前にやってくるのだから。

この「偶然性」が「必然性」を生むことになることに、どれだけの人が気づいているだろうか。
「必然性」とは、人間が生み出した「心の繋がり」。

その人を見ると・・または一緒にいると、言葉にならないような感情が泉のようにわき出てくることがある。
その時に「この人と一緒にいたい」と感じたり、「この人と出逢ってよかった」と感じる。
その時は「偶然」だと思うが、人間というのは、その時の自分を定義づけてしまうことがあるのだ。
そうすることで、自分を納得させることができるから・・・いや、勇気や愛を感じることが出来るからと言った方がいいかもしれない。

「偶然性」は常にプラス的な要素をもたらすとは限らないこともつけたしておこう。
それでも、そのときの自分を否定しないこと。
なぜって・・・それは、それ以上のことは出来なかったはずだから。

さて

人が生きていくということは、この繰り返しでしかないと思う。
その中に、自分だけにしか見えない輝きがきっとある。

今日
全く知らないおばあさんと出会った。
私も知らないし、おばあさんも私のことは知らない。

「孫がね、私にくれたんだよこれ。・・・子供の笑顔っていいね。お兄さん子供いる?」

おばあさんの顔には、「幸せ」という言葉以上の笑顔があった。

人間っていいものだ。

昨日、叔母夫婦が家にきた。お盆ということもあるのだろうが父の具合が心配だったようだ。

「手術してから一ヶ月ぐらいだけどどう?。兄だけは絶対にそんな病気にはならないと思っていたけど。」

そう話す叔母の顔には不安が見えた。

父は手術を無事終え体力はとても70代には見えませんねと看護師さんに言われ、自分はもう大丈夫だという顔をして家に戻ってきたのが一ヶ月前。
主治医の勧めもあり、弱い抗がん剤を服用することになった。

2週間後ぐらいから、体調不良を訴え始め、食事もあまりとらなくなってしまっていた。

私も数年前に手術をしたが、あの痛みは、実際に体験した人にしか分からないだろう。
周りの人達はみんな心配してくれたが、心配してくれたところで、その痛みがなくなるわけではない。

人は、一端苦しみを感じ、そこから抜け出せないときがある。
頭の中では分かっていることが、実際にはできないのである。
多分、父もそんな感じなのだろう。

「数直線が上の方に伸びていくことをイメージするときつくなるんだよ。今の状態よりは悪くならないようにと思うと考え方も違うからね。」

そう話したのは叔母の夫。

実は、彼も数年前に脳梗塞で倒れている。叔母はその時には食事やら日常生活やらでかなり大変だったようだ。

さて、「共感する」ということだが、病人に対しては、また意味合いが違ってくる。
同じ思いをした人の話は父にとっては心の支えとなり希望となる。

心理的な働きがあるときに使う言葉が「共感」。これと似た言葉に「共鳴」というのがある。これは物理的な作用が働くもの。
「あなたの心を感じることが出来る」・・・・・こう言えるのは、その痛みや喜びを実際に感じたことがある人にしか言えないし重みはない。

人は色々な場面で人と出会い、そして触れあう中で心の中に芽が出る。それは実際に触れあわなければ分からない事。分かったようなことや正当論は本を読めばよい。詳しく書いてあるのだから。

その人の言葉や行動を受け止めてあげること。例えそれが自分の思いと多少異なっていたとしても。
大切なのは「きっかけ」なのだ。自分がプラスに働くそのものは、偶然に出会うことが多い。

父は、整腸剤と鉄剤を処方されてきた。
「この薬を飲んだら、この間までの症状が少し良くなったよ・・・。」

医者と患者の間にも信頼関係は必要であり、もっとも重要なのだと思う。
どれどれ、そろそろ夕飯。父はどんな表情で食するのだろう。テレビをつけてゆっくりさせてあげたいものだ。


上から目線の人は、人とのコミュニケーションは上手いとはいえないと思うのですがどうでしょうか?
どんな人とも、上手に会話が出来る人がいます。
それは多分、自分だけを出さない・・聞き上手なのかもしれませんが、ただ聞いているのではない。
相手の話を聞いて、共通項を見つけることが上手い人なのでは。

ネットの中でも同じ事が言えます。
自分という存在を常にアピールしたい人。寂しさから誰かと繋がりを持ちたいと思う人。そしてあわやくば「釣り」という行動に出る人。

多分、この三種類なのかなと最近思いますね。

音楽の世界でも同じ事が言えると思います。
会話が出来ない人・・または会話をしようとしない人はまずもって音楽にならないということ
技術的なことは練習する時間とバイタリティーがあればある程度克服できるかもしれません。
ですが、人が生きてきた・・またはその人自身は年をとればとるほど、自分のスケールを変えようとはしません。もちろんすべての人ではありません。ごく一部だとは思います。

経験が新しいことを拒むこともあり得るわけです。
ですがそれでは、コミュニケーションはとれない。「今の若い者は・・・」と言ってる人は、その時点で「色眼鏡」で見ている。確かに、そう言う面があることは間違いのないこと。だとすればアプローチの仕方を変えるとか、もっといろいろと方法論があるはずなのです。異端児はその時代ではそのように思われますが、ビートルズの曲が音楽の教科書に掲載されるなんて誰が想像したでしょうか??。
マイナス面だけを見てしまっては、その人の本質は見えないもの。ましてやトップに立つ人間は力量を測るスケールを「自分」という存在だけに頼っては駄目なのではないかと。

自分が生きてきた価値観とはかなり変わってしまっている部分は私も感じます。
「あれ??」と思うことも多々あることは同じ。

「流行」と「不易」という言葉があります。
どんな時代であっても変わらない物。流行は変化する物。使い捨ての流行が今は多いと感じています。外見だけで売れてしまう時代とも言えるかもしれません。それはおかしいですね。
グラビアアイドルの女性なんてどのくらいの期間注目されるのでしょうか?またはアイドルと呼ばれる人達とか。
実力があっても評価されない人が沢山います。お金にはならないのかもしれませんが、正当な評価をされていない。これもある意味コミュニケーションを阻害している要素なのかもしれません。

「自分」がテレビのドラマの主人公だったらどう映るのかと考えたことがあります。
そんなことは実際はないのですが(笑)。
でも、誰かに評価して貰うためではなく、自分が見て納得できるかどうかのほうが、とても大事ですね。

以上、とりとめのない私見でした。



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